例によって文学という言葉のさす範囲は広いが、ここでは言語によって形作られた作品すべてを文学と呼称したい。そこには戯曲やエッセイ、俳句、詩、そして当然小説全般も含まれる。
芸術か学術か
古代における文学の起こりは、歴史を記述するところから始まったとみるのが一般的である。書くものは限られ、文字をすべての人が自由に操れた時代でなければ、記述する内容にはその価値と、後世に伝える必要性が求められる。
歴史家たちが編纂し、書き残すのが文学の多くを占めていた時代において文学とは学術であり、娯楽とは程遠かっただろう。
民衆が啓蒙され、文字を扱う人間が増えて初めて文学が娯楽に強く貢献するようになる。頭の中にしかなかった空想が、文字となってこの世に存在するようになり、さらに他人のそれを楽しむという選択肢が生まれる。それだけではなく、やはり自身の思想を伝える手段としての文学の在り方も近代になるにつれて盛んに認められている。
文学が芸術としての性質を帯びるようになるまでには、まず文字が大衆に定着し、さらに筆記具の不自由がなくなるというプロセスを経る必要があった。
小説の起こり
何をもって小説とするかは現代において曖昧になっているが、その形成過程を知れば少し見えてくるものがある。
- 近代小説は、18世紀のフランスで書簡体小説が流行り始めたことから生まれた。
- 識字率の高い裕福な人々が読者として台頭し、そのニーズに応える形で小説が発展した。
- 発展はイギリスやフランスなどの中産階級の興隆と密接に関連している。
- 同時期に起きた産業革命により、印刷技術が発展し、言論や出版の自由が広がったことも、小説が中産階級や労働者階級にも浸透する道を開いた。
小説が独自の形式として現れるのは近世以降のことだ。17世紀のヨーロッパにおいて、近代小説の先駆けとなる作品が登場した。例えば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』やロクサーヌの『アストレア』などがその代表的な作品である。これらの小説は、物語の展開や登場人物の心理描写に重点を置き、それまでの物語とは異なる新しいアプローチを示した。
18世紀に入ると、イギリスのリアリズム文学や啓蒙主義文学の影響を受けながら、社会や人間の心理を深く描写する作品が登場した。リチャードソンの『パメラ』やフィールディングの『トム・ジョーンズ』などがその代表的な作品だ。これらの小説は、登場人物の内面や社会的背景を詳細に描写することで、読者に現実の世界をより深く理解させることを目指した。
19世紀には、ロマン主義やリアリズム、ナチュラリズムなどの文学運動の影響を受けながら、さまざまなジャンルやスタイルが生まれた。この時期には、ディケンズやトルストイ、フローベールなどが活躍し、その作品は現代の小説の基盤を築く重要な役割を果たした。
実験的な手法やスタイルが登場した20世紀。モダニズムやポストモダニズムなどの文学運動の影響を受けながら、小説の形式や構造は多様化し、一つの定義で捉えることが難しくなった。
虚構や展開の必然性、主人公の存在が必要とされた時代もあったが、現代においてはその限りではない。
小説の在り方
娯楽としての側面が大きかった小説は、現代において高尚なものとして扱われるようになり始めた。
というのも、インターネットで手軽に情報を得られるようになり、特に若い世代においては、TikTokやYoutubeのショート動画のように、一分間に満たない短いコンテンツを刹那的に楽しむことが当然である。
したがって何時間もかけて一つの本と向き合うというのが「褒められるべき」ことで、もはや月に本を一冊も読まないという人がいるのが驚くことでなくなった。
要するに、小説はもはや大衆に向けた娯楽ではなく、少数の特異な人たちの趣味になりつつあるのだ。
何を大げさなことを思われるかもしれないが、少し思い出してほしい。駅前にあったお気に入りの本屋さんがいつの間にかなくなったこと。行きつけの図書館から蔵書スペースが減って謎のカフェが増設されたこと。大きな本屋は文具や服の販売に力を入れ始めたこと。
電子書籍の台頭により紙の本の需要が減ったことも一因としてあるだろうが、それだけではないはずだ。本を読む人、小説を楽しむ人の数が減っている。
それが悪いことだとは言わない。小説自体も、それまで主流だった娯楽を押しのけて広まったもので、時代の流れとともに今度は廃れる番になっただけの話だ。
とはいえ小説が苦境に立たされていることは間違いないが、それが全く消えてしまうことはないだろう。人が空想を形にしたいと思ったとき、紙とペンを手に取るのが一番早いという事実は揺るがないはずだ。